良い人生とは何か
研究を続けるかどうか、どんなテーマを選ぶか、博士に進むか。そのどれもが、結局のところ「あなたはどんな人生を送りたいのか」という問いと地続きになっています。ここを曖昧にしたまま技法の話に入ると、手は動くけれど心がついてこない、という状態に陥りがちです。
研究を続けていれば、何度か「自分はなぜこれをやっているんだっけ」と立ち止まる瞬間が来ます。論文が通らない時期、テーマがうまく転がらない時期、まわりが先に就職していく時期。そのたびに支えになるのは、研究の技術や進捗ではなく、「自分はこういう人生を送りたいんだ」という、自分のなかにある小さな旗のような感覚です。技術はその旗を立てたあとで身につければいい、というのが僕の率直な実感です。
生きることは、選び続けること
朝起きて何を食べるか、どの道を通って大学に行くか、誰にどんな返信をするか。一日のうちに、僕たちは数えきれないほどの小さな選択をしています。そのひとつひとつは取るに足らないように見えても、積み重なった先に「生き方」と呼ばれるものが立ち上がってきます。
その総和のなかには、もう少し大きな選択も含まれています。どんな価値観を中心に置くか、時間をどこに注ぐか、誰と関わり、社会とどう接続するか。こうした問いには教科書的な正解がありません。だからこそ、誰かに丸投げするのではなく、自分の頭で考えて選び取れるかどうかが、人生の質を決めていきます。正解がないのは不安なことですが、同時に自由でもあります。
学部生に進路の話を聞くと、よく出てくる答えがあります。「親に勧められたから」「世間的に安定しているから」「みんながそうしているから」。これらは合理的ですし、判断材料としては正当なものです。ただ気になるのは、その進路が 自分の意志による選択なのか、他者の期待への反応なのか を、本人がどこまで自覚しているかです。後者だけで決めてしまうと、表面的にはうまく回っているように見えても、ふとした瞬間に「これは本当に自分の人生なのか」と足元が揺らぐことがあります。
主体性は、わがままとは違う
「主体的に生きよう」と言うと、好き勝手に動くことだと誤解されがちです。でも主体性とは自由気ままさのことではなく、 選択の理由を自分のなかに持つこと 、そしてその責任を自分で引き受けることです。
同じ大学院進学でも、「親が望むから行く」と「自分の問いを追い続けたいから行く」では、入ってからの粘り強さがまるで違います。前者は何かにつまずいたときに「親のせい」と言いたくなりますが、後者は同じつまずきを自分の選択の延長として受け止められる。長い時間軸で見ると、この違いはびっくりするほど大きな差になります。
第一歩は、大きな決断の前に小さな自問を重ねておくことだと思います。どんな人生を送りたいのか、何に価値を見出すのか。完成形でなくていいし、来月には変わっているかもしれない。それでも「いまのところ自分はこう思っている」という軸が言語化されていると、迷ったときに戻ってこられる場所ができます。研究という営みは、この「暫定的な答えを持ちつつ更新し続ける」態度を、毎日のように実践する場でもあります。
問いを持って生きる
問いのない人生は、誰かが用意した答えを順番に消費していく人生になりやすい。逆に問いを持って生きるというのは、世界を絶えず見直し、再構成しながら歩いていくことです。なぜこの制度はこうなっているのか。なぜ人はわかっていることを行動に移せないのか。なぜ自分はこの作品にこんなに惹かれるのか。日常のなかにこうした問いを見出す視点は、そのまま研究の基礎になります。
同じニュースを読んでも、同じ街を歩いても、問いを持っている人の目には違うものが見えています。これは才能ではなく姿勢の話です。研究者になるかどうかとは別に、研究的な態度は人生を確実に豊かにすると思っています。
仕事に意味を持たせるということ
人生のうち、仕事と呼ばれる活動に注ぐ時間は想像以上に多い。平日の日中はほとんどそこにいて、休日の頭の片隅にも仕事が居座っている。だからこそ、その時間がお金を稼ぐ手段を超える意味を持つかどうかは、人生の質に直結します。
「意味のある仕事」と聞くと壮大なミッションを思い浮かべがちですが、僕の感覚ではもっと地味です。自分の価値観と仕事の中身が重なっている感覚。仕事を通じて自分が育っている感覚。そして、人とつながっている感覚。この三つが絡み合ったところに、意味は立ち上がってきます。どれかが欠けると、他の二つもしぼみがちになります。
研究という仕事には、少し変わった性格があります。最大の特徴は、毎日が未知への挑戦であることです。昨日までわからなかったことが、今日の自分の手で少しわかるかもしれない、という小さな興奮が日常に組み込まれている。二つ目は、長期的な視野が要求されること。成果が数か月で出ることのほうが稀で、数年、ときには十数年の時間軸で物事を考えます。忍耐力は試されますが、現代では珍しいくらい「じっくり考える」ことが許される仕事でもあります。三つ目は自由度の高さです。何を研究するか、どうアプローチするか、いつどこで作業するか。多くの場面で大きな裁量が与えられています。その自由は責任の裏返しで、サボろうと思えばいくらでもサボれてしまうのですが。
そして、研究生活にはどうしても意味を見失う時期が来ます。実験がうまくいかない、論文がリジェクトされる、同期がきらきらして見える。そんなときに「意味を持て」と自分に発破をかけても、たいてい逆効果です。僕が頼りにしているのは三つの帰り道です。初心に戻ること。視点をずらして、個人的な成功から、分野への小さな貢献や後輩の育成といった広い枠で眺め直すこと。そして距離を取ること。 意味は、目を凝らせば見えるものではなく、ふっと視線を外したときに浮かび上がってくるもの でもあります。
困難な時期に意味が見えなくなるのは異常ではなく、本気で向き合っている証拠でもあります。
大学という環境を使う
大学生活は、人生のなかでもとびきり自由度の高い期間です。授業に出るかどうか、何を学ぶか、誰と関わるか、時間をどこに注ぐか。その大半を自分で決められる。これだけ裁量の大きな数年間は、社会に出るとなかなか手に入りません。
少し具体的な話をします。日本で大学に通うには、国公立でも年間およそ五十万円、私立なら百万円から百五十万円程度の学費がかかります。住居費や生活費を加えると、四年間で一千万円近い投資をしていることになる。それだけ払っているのに、授業には最低限しか出ず、図書館も教員もゼミも研究支援もキャリア相談もほとんど使わないまま卒業する、というのは、投資判断として見るとかなりもったいない。
アルバイトや遊びを否定するつもりはありません。学外の経験は、視野や人間関係を広げるうえで貴重なものです。気になるのは、大学という知の環境に対して、戦略も意識もないまま背を向けてしまう状態のほうです。
大学は、何を学んだか、どう生きようとしたか、どのように考えたかが問われる場所です。その価値を使わないまま卒業証書だけを得る、という選び方もできますが、この数年をどう使ったかは、あとで必ず効いてきます。脅しではなく、まわりを見ていて感じる、わりとシンプルな観察です。
この章で触れた「どう生きるか」の話は、姉妹編『大学時代の庭』が一冊を通して扱っています。 本書はここから、研究という営みに固有の話へ進みます。