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知を生み出すということ

研究って、生産的なんでしょうか。改めて聞かれると、答えに詰まる人は意外と多いと思います。研究はすぐに役に立つとは限らない。目に見える成果が短期間で出るとも限らない。評価のフィードバックは遅く、世間の物差しから見れば「非効率」に映ることすらあります。僕も家族や友人に「で、それは何の役に立つの?」と聞かれて、うまく答えられずに困った経験が何度もあります。

それでも、研究は人間にとってもっとも生産的な営みのひとつだと思っています。ただしそれは、単位時間あたりにアウトプットをどれだけ詰め込めるか、という意味での生産性ではありません。

いちばん生産的な行為は、概念に名前を与えること

研究におけるもっとも生産的な行為は、 新しい概念を提唱し、それに適切な名前を与えること だと僕は考えています。

これまで誰も気づいていなかった現象や関係性を発見し、それを「○○理論」「△△効果」「××モデル」といった形で名付けて世界に出す。この行為は、知識の積み増しを超えて、新しい意味の単位そのものを作り出します。

概念は、他の研究者にとっての足場になります。誰かがその概念を使って新しい問いを立て、別の誰かがその問いに応答し、さらに別の誰かが反論する。ひとつの良い概念が生まれると、そこを起点にした研究が分野全体で展開していきます。データや実験結果は時間とともに古びますが、本質を捉えた概念は、時代を超えて価値を生み続けます。

「相対性理論」も「自然選択」も「無意識」も、研究者が新しい概念を見いだし、名前を付けた結果です。目指したいのは、規模はそこまで大きくなくても、誰かにとっての足場になるような、自分の名前で呼ばれる概念を世界に置いていくことです。

学ぶことと、生み出すこと

大学で過ごす時間の大半は「学ぶこと」に費やされます。教科書を読み、講義を受け、レポートを書き、試験で問われたことに答える。すでに誰かが整理してくれた知識を受け取り、適切に使う訓練です。とても大事な営みで、これがなければ研究もできません。

けれど研究は、それと地続きでありながら、決定的に違う性質を持っています。研究は、すでにある知識を扱うだけでなく、まだ存在しない知を世界に出すことを目指すからです。

なぜそのように考えられているのか。どこまでが分かっていて、どこからが分かっていないのか。自分ならどんな枠組みで捉え直せるのか。こうした問いを起点に、既存の知識をいったん解体し、再構成し、必要なら別の視点を持ち込んで、まだ語られていないことを語る。このプロセスには、知識の単純な使用とは違う、自分の思考による構造化が要ります。

つまり知的生産とは、知識の「読者」でいることをやめて「著者」になる、という態度の転換です。大げさに聞こえるかもしれませんが、実際には卒業研究のレベルからすでに始まっている話で、誰もが少しずつ著者になっていく訓練を受けています。にもかかわらず、自分が著者であるという自覚を持たないまま大学院に進んでしまう人は、僕の周りにもけっこうな数います。

情報があふれる現代では、誰でもその気になれば膨大な知識にアクセスできます。だからこそ、「知っている」ことそのものの価値は下がりました。代わりに重要になるのが、その知識をどう再構成し、どう自分の文脈で意味づけ、どう他者と共有するかです。どんな問題を「問題」とみなすのか、何を重要だと判断するのか、どんな言葉で説明し誰に届けるのか。こうした選択を引き受ける態度を、僕は 知のオーサーシップ と呼びたいと思っています。

同じ論文を読んでも、自分の問いのなかにどう位置づけるかは人によって違います。同じデータを見ても、何を強調しどう語るかは選択の連続です。そう自覚した瞬間から、文献の読み方も、議論への参加の仕方も、書くものの質感も、少しずつ変わってきます。

創造は、反復から立ち上がる

「研究ってクリエイティブな仕事ですね」と言われることがあります。たしかに新しい何かを世界に出す営みではあるのですが、そう言われたときに小さな違和感を覚えます。世間で「クリエイティブ」と言うときに連想されがちなひらめきやセンスや天才性と、研究の創造性は、かなり質感が違うからです。

研究における創造は、雨上がりの空に突然かかる虹のようなものではありません。もっと地道で、何度も同じ道を行ったり来たりしているうちに、ある日ふと「あ、こうか」と形が見えてくる種類のものです。論文を何本も読んで、実験を何度もやり直して、立てた仮説を自分で壊してまた立て直して、書いたものを読み返して構造を組み替える。この 考え続ける時間の蓄積こそが、研究における創造の実態 です。だから「自分はひらめき型じゃないから研究は無理」と言う人がいたら、僕は迷わず「むしろ向いているかもしれませんよ」と答えます。

最初に読んだときには「ふうん」としか思わなかった論文でも、二回、三回と読み返すうちに、その構造や問いの含意が立体的に見えてきます。逆に、自分では完璧だと思っていたアイデアでも、人に何度か話しているうちに根本的な見落としに気づくことがあります。これは新しい情報が入ったからではなく、 同じ対象に向き合う回数が増えて、自分の側の解像度が上がった ということです。

ここでいう反復は、作業を機械的に繰り返すことではありません。同じ対象に何度も向き合いながら、毎回少しずつ違う角度から見ていく、意識的な反復です。一回目の自分と五回目の自分は、同じ対象を見ているようでいて、もうかなり違うものを見ています。

その代わり、創造は本質的に遅い行為です。本当に面白い問いを見つけるには時間がかかるし、深い理解や意外性のある視点は一夜では得られません。すぐに答えが出ない状態を異常と感じるのではなく、これが研究のデフォルトの状態だと受け止められるかどうか。この時間感覚を育てられるかどうかが、研究を続けられる人とそうでない人を、わりとはっきり分けているように見えます。

優れた研究者を間近で見てきて繰り返し確認したのは、彼らがすごいのはひらめきの瞬間ではなく、 ひらめかない期間に思考をやめないところ だということでした。創造性は才能ではなく姿勢で、誰でも鍛えられます。

アウトプットを前提にして読む

情報があふれる時代には、もうひとつ厄介なことが起きます。 情報に触れている時間がどれだけ多くても、考える時間はむしろ減っていく という逆説です。インプットの量と思考の量は本来は別の話のはずなのに、前者ばかりが膨らんで後者が痩せていく。

だから、アウトプットを前提としたインプットへの切り替えが効きます。書くために読む。話すために調べる。自分の問いを持って情報に向き合う。この前提があると、人は自然と「これは自分の問いにとって重要か」「これはどう使えるか」と情報を選別しはじめます。

具体的には、何かを学ぶときに、最初に「これを誰にどう話すか」「どんな問いの答えとして使うか」を一行でいいから決めておく。それだけで情報の入り方が変わります。読みながら自分の問いを書き出してみる、学んだことを誰かに話す前提で要約してみる、自分の言葉で言い換えてみる。こうしたささやかな能動性の訓練が、知識の受容を濃密にします。

情報との付き合い方そのものは、姉妹編『大学時代の庭』の「自分の頭で考え、自分の手で作る」で、研究の文脈を離れて扱っています。 生成 AI を執筆にどこまで使うかは、生成AIと論文執筆で扱います。