コラム:真面目に過ごさない大学生の自己矛盾
大学生活は自由度の高い期間です。時間の裁量は大きく、授業に出る・出ない、何を学ぶか、誰と関わるか、ほとんどを自分で決めることができます。 この「自由さ」は魅力である一方、思考停止のまま過ごすと、取り返しのつかない損失を生む可能性も孕んでいます。
現代の日本で、大学に進学するには国公立でも年間約50万円、私立では100〜150万円の学費がかかります。 それだけの投資をして大学に入ったにもかかわらず、授業には最低限しか出ず、大学のリソース(図書館、教員、ゼミ、研究支援、キャリア相談等)も活用せず、空いた時間のほとんどをアルバイトや娯楽に費やす学生が少なくありません。
もちろん、遊びやアルバイトを否定するつもりはありません。むしろ、学外での経験は人間性や視野を広げる上で重要です。 しかし、問題はそこに 戦略も意識もなく、大学という「知の環境」をみずから捨てているかのような態度が見られること です。
年間数十万円のためにバイトに明け暮れ、本来100万円以上の価値があるはずの「大学という機関の知的リソース」を十分に使わずに過ごす。 これは、経済的にも時間的にも 極めて非効率な投資行動 です。
では、なぜこのような自己矛盾が起こるのでしょうか? ひとつの背景には、 学費を自分で負担していないため、学びの価値をリアルに実感できていない という点があるかもしれません。あるいは、「とにかく卒業すればいい」という資格主義的な発想に縛られている可能性もあります。
確かに、日本社会では「大卒資格」が一定のキャリアの入り口になっているのは事実です。 しかし、もし大学という場所が「たいした努力をしなくても卒業できる」と知られてしまったら、その卒業証書の価値はどうなるでしょうか? あなたが今得ようとしている「資格」は、本当にあなた自身の努力と能力を反映したものとして信頼されるでしょうか?
あるいは、こう反論する人もいるかもしれません。 「最終的に見るのは卒業証書だけであって、中身なんて関係ない」と。
では、問い返したいと思います。 あなたは、そうしたラベルでしか人を判断しない社会を肯定しますか? 人の価値を、その人の行動や態度ではなく、単なる資格や経歴でしか見ないような、 固定的な観念に囚われた社会や他者と、あなたは本当に向き合いたいと思いますか?
大学とは、「何を学んだか」「どう生きようとしたか」「どのように考えたか」が問われる場であり、そこにこそ本質的な価値があるはずです。
その価値を放棄したまま卒業証書だけを得ようとする態度は、短期的には都合がよく見えても、長期的には自分の人生に対する信頼感を削っていくことになりかねません。