趣味と研究の相乗効果
研究は、高度に専門的であると同時に、創造的であることを要求される営みです。同じ手続きを繰り返して結果を積むタイプの仕事ではなく、問いを立て直したり、別の文脈から借りてきた視点で現象を見直したりすることで進んでいく仕事です。だから、研究の進歩は、机に向かっている時間の長さよりも、その人がどれだけ豊かな視野を持って机に戻ってこられるか、というところに大きく左右されると、僕は感じています。
その豊かさを支えているのが、意外にも研究以外の時間、つまり趣味の存在です。趣味というと「研究以外の余暇」というニュアンスで聞こえがちですが、もう少し本質的に言えば、研究室や学会という限定的な場とは別の世界を持つ手段であり、自分らしさを取り戻す場でもあります。
別の軸の経験が、研究の発想に効く
たとえば、楽器を続けている人は、構造やリズムに対する感覚が無意識のうちに磨かれていきます。スポーツを続けている人は、粘り強さや、瞬間的な判断、身体感覚に基づく「うまくいきそう/いかなそう」の勘が育っています。料理をする人は、段取りと並列処理の腕前が地味に上がりますし、園芸や旅行、ゲーム、読書、釣り――何であれ、研究とは違う軸で手を動かす体験は、研究の発想にゆるやかに効いてきます。
僕自身、ゲームやライトノベルを読む時間からアイデアをもらうことがよくあります。物語の構造を眺めていて「ここで視点を変える発想は、論文の構成にも使えるな」と気づいたり、ゲームのレベルデザインの工夫を、学生指導の組み立てに転用できることに気づいたり。直接的なインプットを目当てに趣味をやっているわけではないのですが、結果として、別世界で身につけた感覚が、研究の方に自然に流れ込んでくることが多いと感じます。
研究だけを続けていると、思考のフレームが固まってきます。同じ専門分野の論文ばかり読み、同じ分野の人とばかり話し、同じ言葉づかいを使い続ける。そのなかにいると、自分の視野の境界が見えなくなる。趣味は、その境界の外を一時的にのぞかせてくれる窓のようなものです。
遊び心が、研究の硬直化を防ぐ
趣味のもう一つの意義は、「成果」や「効率」を問われない時間を持てることです。楽しいから続けている、興味があるから手を動かしている、上達してもしなくてもいい。この「遊び」のモードは、研究の世界ではいつの間にか失われがちです。
研究を続けていると、成果を求めるあまり、発想が狭くなり、新しい挑戦を避けるようになる瞬間があります。既知のやり方を繰り返すほうが安全に見えるからです。でも、それを続けていると、研究そのものの面白さがすり減っていきます。気づいたときには、机に向かうことが義務感だけになっていて、出てくる成果も型通りのものばかり、ということが起こります。
趣味の中で試行錯誤する、偶然を楽しむ、失敗しても笑える。こういう感覚を別の場所で保っておくことが、研究のなかで再び遊び心を発揮するための備えになります。研究の中だけで遊び心を維持しようとすると、評価や成果と切り離せなくなって、たいてい途中で苦しくなる。あなたが研究の遊び心を取り戻したいときは、研究の中で頑張るより、別世界の遊びを思い出す方が早いことがあります。
リズムをつくり直す存在として
人はずっと集中できないし、ずっとリラックスもしていられません。集中と休息のリズムのなかで、パフォーマンスは最大化されます。研究だけで一日が埋まると、そのリズムが単調になり、気づけば燃え尽き寸前まで追い込まれる、ということが起こりやすくなります。研究の問いは、一度頭に入ると放っておいても勝手に動き続けるたちの悪さがあるので、強制的に意識を別の場所に持っていく仕組みが要るのです。
趣味は、そのリズムを外から整えてくれる存在です。没頭する対象が研究以外にもあると、研究から離れている時間にも、脳はちゃんと回復に向かいます。さらに、趣味を通じてできた仲間やコミュニティが、研究で行き詰まったときの救いになることもあります。研究室や学会の中だけで生きていると、自分の位置が分からなくなる瞬間があるのですが、別の軸の人間関係を持っていると、自分を取り戻しやすい。
僕は、「研究だけの人生」より「研究とともにある人生」という言い方が、自分の感覚に近いと感じています。少し言葉遊びのようですが、長く研究を続けている人ほど、後者の構えを自然に持っている印象があります。趣味を持つことは、研究をサボっているのでも、研究から逃げているのでもありません。研究を長く続けるための、ちゃんとした投資の一形態だと考えてください。