研究倫理と盗用
「この引用のしかたで大丈夫だろうか」「データの扱いで何か見落としていないか」「知らないうちに不正をしていないか」。研究倫理の気がかりは、研究者として活動する限りずっとついてまわります。慣れてくれば「これは大丈夫」「これは怪しい」の感覚が身についてきますが、最初のうちはどこに線があるのかわかりにくく、引用ひとつ書くたびに不安になる、というのは多くの研究者が通る道です。この章では、守るべき基本的な原則と、卒業研究や修士研究で実際に必要になる手続きを扱います。ルール遵守の話というより、 社会からの信頼と学術の価値を保つための、日々の判断の話 として読んでもらえればと思います。
なお、SNSでの振る舞いや公に発信する際の倫理はSNS との付き合い方で扱っています。実験や調査そのものの組み立て方――対照群、サンプルサイズ、教示文、パイロット――は第5部:実験・調査を設計するにあります。この章は、その設計を実際に人に対して実施してよい状態にするための話だと思ってください。
なぜ研究倫理が大事なのか
研究は、社会からの信頼と支援の上に成り立っています。一件の研究不正が、その研究者個人だけでなく、 分野全体や科学そのものへの信頼 を損ないます。大きな不正事件のあと、その分野の論文が一斉に疑いの目で見られるようになった例は、いくつもあります。不正な研究は、積み上げを崩すだけでなく、それを信じた後続研究も道連れにしてしまう。
研究公正の基本としてよく挙げられるのは、 誠実性 、 責任性 、 透明性 の三つです。誠実性とは、あらゆる段階で正直であること、つまり捏造・改ざん・歪曲をしないこと。責任性とは、研究の質と安全性に責任を持ち、社会への説明責任を果たすこと。透明性とは、過程と結果を適切に記録し、検証可能にすること。この三つは互いに支え合っていて、どれか一つが崩れると他の二つも揺らぎます。
研究不正:FFPとそれ以外
研究不正の中核は、いわゆるFFP――捏造(Fabrication)、改ざん(Falsification)、盗用(Plagiarism)――です。
捏造 は、存在しないデータや結果を作り上げること。防止には、実験ノートの詳細な記録、データ取得過程の文書化、第三者が検証できる状態の確保が有効です。データを取った瞬間に、どこから・どのように・いつ取ったかを残すクセをつけておくと、後で疑われたときにも自分を守れます。
改ざん は、資料・機器・過程を変えて成果を正確に示さないこと。元データの厳重保管、処理過程の明確な記録、適切な統計手法の適用がポイントです。図のスケールをいじって見栄えを良くする、外れ値を理由なく除く、といった「ちょっとした見せ方の工夫」が改ざんにつながる例があるので、自分の処理ステップは常に再現可能な形で残しておく。
盗用 は、他者のアイデア・研究内容・文章を、適切な引用なしに使うこと。適切な引用・参考文献の記載、盗用検知ソフトの活用、そして 自己盗用の回避 が予防策です。盗用は意図的なものだけでなく、メモを取るときに引用元をつけ忘れていて後で出典がわからなくなる、というルートでも起こります。読みながら必ず出典をメモに残す習慣が、結局のところ一番の防御です。
FFP以外にも気をつけたい行為があります。 重複投稿 (同一内容を複数誌に同時投稿する、または既発表の内容を再投稿する)、 オーサーシップの不正 (貢献していない人を著者に入れる、あるいは貢献した人を外す)、 利益相反の未申告 (研究に影響しうる経済的・個人的利害関係を開示しない)。どれもFFPほど派手ではありませんが、発覚すると同じくらい信頼を損ないます。
引用と参考文献
引用が必要なのは、先行研究の成果や理論を参照するとき、他者の意見やアイデアを紹介するとき、データや統計情報を使うとき、文章や図表を転載・改変するときです。「自分で考えたことだから引用は要らない」と思える内容でも、たいていは誰かが先に書いていて、調べると引くべき先行研究が見つかります。迷ったら引く、というくらいでちょうどいいです。
引用の適切さは、原典に当たって確認すること、文脈に応じた範囲で引用すること、引用の必然性を自分に問うことに尽きます。孫引きで済ませると、原典の意味を取り違えていることに気づけません。引用スタイル(APA、IEEE、Vancouverなど)は分野や投稿先の指定に従い、論文内で書式を揺らさないのが基本です。
自己盗用についても気を抜かないでください。自分の過去の成果を適切な引用なしに再利用することも盗用にあたります。過去の自分の論文からの引用も明示し、重複部分と新規の貢献を明確に区別する。自分の文章だから自由に使っていい、というわけではありません。
データ管理
データ管理は、地味ですがあとあと大きな差を生む部分です。記録は、実験条件の詳細、測定値、異常値や例外的なデータ、取得日時を、 「後から見て自分でも再現できる」状態 で残す。これが最低ラインで、ここを満たしていない記録は半年後の自分にすら通じません。
保管は、長期保存可能な形式で、バックアップを取り、アクセス権限を設定し、保管期間の規定を守る。実験ノートには、目的と仮説、手順と条件、観察と測定値、考察と今後の方針を、あとから書き換えられない形で、日付を入れて残す。これらは事故を防ぐためというより、 自分の研究を時間の経過から守る ための投資だと思ってください。
倫理審査を通す
人を対象にする研究――アンケート、インタビュー、ユーザ実験、授業実践の記録――では、多くの機関で事前の倫理審査と承認が必要です。「うちは情報系だから関係ない」ということはありません。人からデータを取るなら対象になります。まずは、自分の所属機関に倫理審査委員会があるか、申請が必要な研究の範囲はどこからか、指導教員に早い段階で確認してください。
申請書に書くことは、機関によって書式が違っても中身はだいたい共通しています。研究の目的と背景、参加者の条件と人数、募集の方法、参加者に何をしてもらうか(所要時間を含む)、収集するデータの種類、予想されるリスクと負担、リスクへの対処、データの管理・保管・廃棄の方法、謝礼の有無と金額。そして、参加者に渡す 説明文書と同意書 の実物を添付します。申請書は研究計画そのものなので、書いてみると設計の穴が見つかることがよくあります。むしろ、穴を見つけるために書くくらいのつもりで取り組んでください。
時間の見積もりで失敗する人が本当に多いところです。申請から承認まで、機関によりますが一か月以上かかることも珍しくありません。審査の締め切りが月に一度という運用のところも多く、その回に間に合わなければ次は翌月です。書類の修正を求められれば、さらに一往復かかります。逆算すると、 データを取り始めたい時期の二〜三か月前には、申請書を書き始めている 必要があります。卒業研究のスケジュールで言えば、夏のうちに設計を固めて申請し、秋から実施する、というくらいの前倒しです。
そして、これが一番大事なところですが、 承認が下りる前に取ったデータは使えません 。後から「あれも入れてよいことにしてください」と申請しても、通らないのが普通です。予備データだからといって例外にはなりません。
承認後に計画を変えるときも同じです。参加者を増やす、課題を差し替える、質問項目を足す。こうした変更は多くの機関で変更申請の対象になります。「これくらいなら」と自己判断せず、委員会の事務担当に一度聞いてください。
参加者への説明と同意
説明文書と同意書は、書式を整えるための紙ではなく、参加者が「引き受けるかどうか」を自分で判断するための材料です。最低限、次を書きます。
- 研究の目的と、誰が実施しているか(研究室、指導教員、連絡先)
- 参加者にお願いする内容と、かかる時間
- 予想される負担やリスクと、それへの対処
- 取得するデータの種類と、その使い道(学会発表、論文、公開データセットにするかどうか)
- 匿名化の方法と、データの保管場所・保管期間・廃棄の方法
- 謝礼の有無と金額、受け取りの手続き
- 参加は自由意思であり、 いつでも理由を言わずにやめられる こと、やめても不利益がないこと
- やめた場合、それまでのデータをどう扱うか(破棄するのか、そこまでの分は使うのか)
- 問い合わせ先
説明は「したつもり」と「相手が理解した」が別物です。文書を渡して黙読してもらうだけでなく、口頭で要点をなぞり、質問の時間を取ってください。同意書は2部作り、1部を参加者に渡します。
途中でやめる権利は、文書に書くだけでなく、実際に行使できる形で運用してください。「やめたい」と言われたらその場で止める。理由を聞き出そうとしない。残りの課題をやってもらおうと交渉しない。これは研究者側の都合よりも優先されます。謝礼も、途中でやめた場合に全額渡すのか按分するのかを事前に決めて説明文書に書いておくと、当日に気まずい判断をせずに済みます。謝礼の金額は、時間に見合った常識的な水準で、参加を断りにくくなるほど高額にしないのが原則です。大学によっては単価や支払い手続き(受領書、振込、学内ルール)が決まっているので、事務に確認しておいてください。
匿名化は、実験を始める前に仕組みとして用意します。参加者にはIDを振って記録し、氏名とIDの対応表は分析用データとは別の場所に、アクセスを限定して保管する。分析や発表で使うファイルには氏名を入れない。音声や動画は、それ自体が個人を特定できるデータなので、保管方法と公開範囲を説明文書に明記してください。自由記述やインタビューの発言を引用するときは、所属や担当科目のように本人が特定されうる記述を落としてから使います。少人数の授業や研究室が対象だと、匿名のつもりでも「これは誰のことか」がわかってしまうので、そこは意識して潰してください。
未成年が対象なら保護者の同意が要りますし、留学生が参加するなら説明文書の言語も考える必要があります。海外の共同研究者とデータをやり取りする場合は、国境を越えるデータ移転の規制が絡みます(実務は国際共同研究で概説しています)。このあたりは自己判断せず、所属機関の担当部署に確認してください。
学生がやりがちな失敗
研究室で実際に何度も見てきた失敗を、三つ挙げておきます。
一つ目は、 承認前に予備データを取ってしまう こと。「まだ本番じゃないから」「友人に試してもらっただけだから」という感覚でやってしまい、後から論文に入れられないことに気づく。パイロットも人を対象にしたデータ取得です。申請の段階で「パイロットを含む」と書いておくか、パイロットまで承認を待つか、どちらかにしてください。手順の動作確認を研究室のメンバーとやる程度なら扱いが変わることもありますが、それも含めて事前に確認するのが安全です。
二つ目は、 講義の受講生を参加者にするときの力関係 への無頓着さです。自分が TA をしている講義、指導教員が担当している講義。ここで参加者を募ると、学生側は「断ると成績に響くのでは」と感じます。本人にその気がなくても、立場の差がある限り、断りにくさは生まれます。対策としては、募集を第三者経由にする、成績評価が終わってから依頼する、参加・不参加が成績に一切関係しないことを担当教員自身の言葉で明示する、参加しない人にも同等の代替課題や機会を用意する、といった形を取ります。誰が誰に頼むのかという構図は、倫理審査でも必ず見られるポイントです。
三つ目は、 同意の範囲を超えてデータを使ってしまう こと。卒業研究のために取ったデータを、そのまま後輩の研究に流用する。ログデータを、説明していなかった別の分析に使う。取得時に説明した使い道の外に出るなら、改めて同意を取るか変更申請を出すかが必要です。最初の説明文書に、想定される使い道を少し広めに、しかし具体的に書いておくと後で困りません。
利益相反
利益相反は、研究者の個人的・経済的利益が、研究の実施や報告に不当な影響を与える可能性のある状況です。典型例は、企業からの研究資金、株式保有・役員兼任、コンサルティング契約、家族・親族の利害関係。学生でも、インターン先の企業のデータやシステムを使って研究する場合などに関係してきます。
対処の基本は、まず 開示 です。潜在的なものも含めてすべて開示する。ある時点では問題に見えなくても、状況が変われば問題化することがあるので、迷ったら開示する側に倒すのが安全です。その上で、回避、第三者による監視、意思決定からの除外を組み合わせて管理します。利益相反があること自体は必ずしも悪ではなく、隠していることが問題になります。
問題が起きたとき
研究不正の疑いを見つけた場合は、所属機関が定める手順に沿って相談・報告し、必要に応じて告発者保護制度を活用してください。一人で抱え込むと、自分まで巻き込まれかねません。
過去の不正事例を読んでおくと「これは確かに自分の研究室でも起こりうる」という感覚が育ちます。判断に迷ったら同僚や指導教員と話す。倫理は個人の心がけだけでは保てない部分があって、組織の文化として支える必要があります。自由と責任は表裏一体で、高い自由度を享受する研究者だからこそ、高い倫理基準が求められます。