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これからの研究者へ

前の章は、この本を読んでくれた全員への言葉でした。この章は、そのなかでも特に、これから研究者としての旅を始めようとしているあなたに向けて書いています。研究室に入ったばかりの人、進学を迷っている人、博士課程を始めたばかりの人、博士を出てこれから自分のラボや自分の研究を立ち上げようとしている人。本のなかではいろいろな話を扱ってきましたが、最後はそのなかでも一番はじめの一歩のところに立っているあなたに宛てて、手紙のような言葉を残したいと思います。

なぜわざわざ最後にこの章を置いたかというと、本全体の声は研究者一般に向けたものだったとしても、本当に伝えたいことはやはり「これから始める人」に集中するからです。何度かキャリアを重ねた人は、自分の経験のフィルターを通してどんな本でも読み解いていきます。でも、まだ自分のフィルターが固まっていない人にこそ、声を直接届けたい。だからこの最後の数ページは、あなたに向けた個人的な手紙だと思って読んでもらえると嬉しいです。

迷っているのは正常です

研究者の道を歩み始めて、最初の数年は、迷いと不安で一杯になるのが普通です。自分に向いているのか。この研究テーマで本当にいいのか。他の人はもっと進んでいるのではないか。SNSで見える同年代の華やかな成果と自分のあいだに、埋まらない距離があるように感じる。指導教員の期待に応えられているのかが見えない。深夜にひとりでこういうことを考えてしまう日が、必ずあります。

これらの迷いは、あなたが真剣に研究に向き合っている証拠です。迷っていない研究者のほうが、むしろ心配です。自信満々でスタートを切る必要はありません。迷いながら、不安を抱えながら、それでも一歩ずつ進んでいく。それが、研究者になっていくプロセスそのものです。第1部や第2部で書いたように、「なぜ研究をするのか」という問いに、最初から綺麗な答えを持っていないといけない、というルールはありません。むしろ、答えが揺れているうちに歩き始めるのが普通で、歩いているうちに答えの形が少しずつ見えてくる、というのが本当のところです。

迷いを恥じないでください。迷いを誰にも話せないことのほうが、はるかに苦しいです。指導教員、先輩、同期、家族、研究の外の友人。誰でも構いません。迷いを言葉にする相手を、どこかに必ず確保しておいてください。話すことで答えが出るとは限りませんが、話せる相手がいるという事実そのものが、研究を続けるための支えになります。

あなたがいるのは、僕が始めた頃と違う風景です

僕が研究を始めた頃と、あなたが今いる環境は、もう同じではありません。AIは日常の研究ツールになり、オープンサイエンスは常識になりつつあり、国際共著は当たり前になりました。分野の境界はどんどん柔らかくなり、「研究者」の定義そのものが揺らいでいます。情報の流れる速度も、求められる発信の量も、十年前とはまるで違います。

これは怖いことでもありますが、同時にチャンスでもあります。前の世代の正解が通用しなくなるということは、あなた自身の正解を自分で作れる、ということでもあるからです。先輩を参考にしつつ、自分の世代に合った研究の進め方を、自分たちで発明していってください。先輩が知らないツールの使い方、先輩が踏み込めなかった分野横断、先輩がやれなかった速さの発信。そういうものを、新しい世代の特権として遠慮なく使ってかまいません。

ただし、変わらないものもあります。問いを立てること、未知に向き合うこと、論理を組み立てること、文章を書ききること、誰かと協働すること。これらは時代が変わっても古びない芯です。変わるものと変わらないものを見分ける目を、早いうちから持っておいてください。新しい流行に振り回されすぎず、しかし古い慣習に縛られすぎず、その間でしなやかに動ける研究者でいてほしいと思っています。

大胆に挑戦して、派手に失敗してください

若いときにしかできないことがあります。それは、まだ評価の物差しが定まっていないうちに、大胆に挑戦して、派手に失敗することです。経験を積んでいくと、失敗のコストが感情的にも社会的にも上がっていきます。だからこそ、若いうちの失敗は安い。今のうちに、やりたいことに手を伸ばしてください。

うまくいかなくても、そこから必ず何かを持ち帰れます。第1部や第6部で書いたように、失敗から学びを取り出す習慣をこの時期に身につけておくと、あとの人生が本当に楽になります。失敗を「ダメだった出来事」として片付けるのではなく、「次に何が変えられるかを見つけるための材料」として扱う。この習慣の有無で、十年後のあなたの研究者としての厚みが、はっきり変わってきます。

僕自身、研究初期の失敗のほうが、成功よりも自分を育ててくれた実感があります。最初の論文がリジェクトされた経験、共同研究で意見が噛み合わなくて空中分解した経験、計画が完全に崩れて方向転換せざるを得なかった経験。どれもその瞬間は痛かったけれど、振り返ると、今の自分のかなりの部分はそこから作られています。失敗は消費ではなく、投資です。怖がらずに、たくさん失敗してください。そしてその失敗を、必ず言葉にして自分のなかに残しておいてください。

あなたの多様性は、強みです

あなたたちの世代は、性別、国籍、文化的背景、人生経験の面で、これまでの研究コミュニティよりずっと多様です。これは間違いなく、研究の創造性にとって大きな資産です。同質な集団より、異質な集団のほうが、長い目で見て面白い研究を生みます。違う視点が混じる場所には、誰も予想していなかった問いが出てきます。

お互いの違いを力に変えてください。自分とは違う背景を持つ仲間を大事にしてください。そして、自分自身のユニークさも大事にしてください。あなたにしかない視点、あなたの育ちのなかで自然に身についた感覚、あなたが当たり前だと思っていることのなかにある特別さ。これらは、研究コミュニティに新しい風を入れる種です。標準的な研究者像に自分を寄せようとして、自分のユニークさを削ってしまう必要はありません。むしろ、その削りたくなる部分こそが、あなたの研究の独自性の源だったりします。

研究室や学会で、自分が少数派だと感じる場面があるかもしれません。その違和感は、無視せずに自分のなかに持っておいてください。違和感を持っている人が一定数いることで、コミュニティ全体は健全になります。声を上げる必要はないし、必要なときには上げてもいい。どちらでも構いません。ただ、自分の感覚を捨てないでほしいと思います。

受け取ったものを、次に渡していってください

いつか、あなたも後輩を指導する立場になります。それは博士課程の途中かもしれないし、ポスドクの時期かもしれないし、もう少し先のことかもしれません。そのとき、自分が先輩や指導教員から受け取ったものを思い出してください。具体的な助言、研究室の雰囲気、議論のときの姿勢、許してもらった失敗、迷っていたときにかけてもらった言葉、なぜか覚えている雑談のひとこと。

それをそのまま次の世代に渡してほしい、とは言いません。あなたなりにアレンジして、あなたらしい形で渡してあげてください。あなたが受け取ったときに違和感のあった部分は、変えてしまって構いません。研究コミュニティは、そうやってバトンを繋ぎながら、少しずつ良い形に書き換えられて続いていくものだと思います。第7部で書いた「研究コミュニティへの貢献」の一番素朴な形は、自分が受け取ったものを、自分なりに磨いて次の世代に渡す、というこの一点だと僕は思っています。

そしてもう一つ。受け取った相手に「これは受け取った」と一言伝える習慣を持ってみてください。お礼のメールでも、雑談のなかの一言でも構いません。受け取ったことを言葉にすることで、渡してくれた人にとっても、その関わりが意味のあるものとして残ります。研究の世界は、案外こういう細かいやり取りの積み重ねでできています。

研究者であっても、人生は続きます

最後に一つだけ。研究者になることは、素晴らしい選択肢の一つですが、唯一の生き方ではありません。

途中で進路を変えてもいいし、研究と並行して別の活動をしてもいい。研究を一時中断して戻ってきてもいい。アカデミアの外に出てから、別の形でまた研究と関わるようになってもいい。第7部で書いたように、研究者のキャリアは想像よりずっと多様で、まっすぐな一本道ではありません。あなたが選ぶ道がどんな形であっても、それが「正しいキャリアではない」ということにはなりません。

あなたの人生の主役はあなた自身であって、研究はその人生を豊かにする一つの手段です。本末が逆にならないよう、時々確認してください。研究が人生を侵食し始めていないか。研究のために大事な人を犠牲にしていないか。研究のために健康を削っていないか。これらに気づいたとき、立ち止まって優先順位を引き直す勇気を持ってください。立ち止まることは、研究者として弱いということではなく、長く続けるための知恵です。

僕からあなたへ

あなたがこの先どんな研究者になっていくのか、僕には予想できません。これだけ多様な道がある世界で、誰がどんな形で花を咲かせるかは、当人にすら最後までわからないものです。でも一つだけ、勝手に信じていることがあります。それは、あなたはあなた自身のやり方で、必ずどこかに辿り着く、ということです。

早く着く必要はありません。まっすぐ行く必要もありません。寄り道しながら、ときどき休みながら、それでもあなたのペースで歩いていってください。誰かと比較して焦る必要もないし、誰かと同じ場所を目指す必要もありません。あなたが面白いと思える問いを、あなたが大事だと思える方法で、あなたが信頼できる人たちと一緒に追いかけていってください。それが続けば、あなたの研究者としての人生は、必ずあなた自身にとって意味のある形になります。

どこかですれ違うことがあったら、そのときは研究の話を聞かせてください。今のあなたの問いがどう育って、どんな形になったのか。途中の苦労や、思いがけずよかった寄り道のこと。喜びも、迷いも、混ぜたまま話してくれていいです。楽しみにしています。

あなたの旅の始まりに、心からのエールを送ります。